身障タクシードライバーの先駆者 故白井仁志氏
日本の身障タクシードライバー第1号である故白井仁志さんについての情報、また協会設立の経緯は意外な程に記録として残されていない。当時の新聞から読み取れることや、聞きずての情報を集めると次のようになる。
日本初の身障タクシードライバーの誕生まで
- スキー事故
高校1年生の時、北海道の山でスキーをしていて転倒、右足を骨折したが、手術の失敗から膝の関節が全く動かなくなってしまう障がいが残った。右足の長さも左足より3.5cmほど短い。
- 根っからのくクルマ好きのチャレンジ
機械関係の会社に勤めるかたわら、昭和39年スクーターを左ブレーキに改造して免許を取得、半年後の昭和40年には左足だけの操作で車を運転する訓練を重ね軽自動車運転免許を取得した。左足しか使えないから「ノークラッチの車に限る」という条件付きだった。
- 普通免許にステップアップ
さらにその後、限定解除を重ねながら普通乗用車の免許も取得し、これまでに8台のマイカーを買い換えた。友人と一緒にラリーに出場し入賞したこともあり、A級ライセンスの所持者である。
- 勤務先の倒産
やがて勤務先の会社が倒産したため、42年からは自分で車を運転して、自動車部品のセールスを始めた。この2月まで北海道から九州まで、1日2~300kmも走りまくった。
- 夢
白井さんには10年来の夢があった。「なんとかしてタクシー運転手になりたい」
夢の実現には第2種運転免許が必要だが、受験資格は1種免許よりぐんと厳しく、障がい者は実質的に閉め出されていた。 - 合格基準の緩和~2種免許取得
昭和49年2月より、警視庁は2種免許の合格基準を少し緩和、
①パンクを自力で治せる
②事故の場合にお客様を安全に誘導したり救出できる
③お客様の荷物を持ち運びできる
などすれば身体障がい者にも受験資格が得られるようになった。当然、白井氏は第2種運転免許を取得した。 - 就職活動
タクシー会社に雇用を願い出るが、当時の障がい者に対する業界の壁は厚く、都内の60社以上から断られ高いハードルを感じ希望を失いかけていた。ノークラッチ車にしか乗れないことがその理由だった。
- 出会い
昭和50年「東京乗用旅客自動車協会」の役員をしていた川村和太郎氏に相談を持ちかけたところ、白井氏のまじめさと熱意に惚れ込んだ川村氏が、日本の身障タクシードライバー第1号として採用を決めた。
身障者の希望を担ったタクシー運転者第1号の誕生である。
ちなみに白井さんのタクシー運転者スタートを契機として、4月1日から警視庁は都内の試験場のうち2カ所に、ノークラッチ車を導入して、身障者の人の希望に応えることとなった。
身障タクシードライバー誕生当時の新聞報道
身体障害者で初めてのタクシー運転手が東京に誕生した。右足の不自由な東京都練馬区中村北二丁目、白井仁志さん。第二種運転免許の合格基準が、先月から身障者のためにいくぶん緩和されたのを機会に、挑戦して見事パス、都内のタクシー会社に就職も決まった。十日に初出社し、無線の取り扱いなどの指導を受けたが、実際に街に出るのは、クルマの都合で今月下旬頃になるという。業界の話では、身障者のタクシー運転手は東京ではもちろん、全国でも初めてのケース。身障者達は「多くの職業が障がい者に閉ざされている中で、新しい分野を切り開いた実績が大きい。後に続く人たちのためにも、ぜひ模範運転手になってほしい」と期待を寄せている。
宮園身障二種免協会設立へ
白井氏に続き
昭和50年7月 石川 勇吉 氏/9月 達 裕雄 氏/10月 長谷川 洋 氏/11月 小林 辰男 氏
翌昭和51年
2月 岡本 末男 氏/3月 丸山 清一 氏/渡辺 光男 氏/小松崎 光一 氏/古城 一美 氏
と相次いで身障ドライバーが誕生した。
昭和51年9月、白井氏の呼びかけにより「身障者運転二種免許取得者安全協会(後の宮園身障二種免協会)」を設立した。